今日僕は久しぶりに彼女のマンションに行った。久しぶりに来る彼女の部屋は新鮮だったが、前の彼氏の置いていったメカゴジラのハンマーが残っていたので僕は少しさみしかった。彼女はまだ彼のことを想っているのだろうか。そういう考えが一瞬頭をよぎったが、彼女の笑顔を見るとそういう考えも吹きとんだ。今日彼女は非常に機嫌がよく、そんな彼女を見ることのできる僕はすごく幸せ者だと思った。しかし彼女は前の彼氏のことをもう忘れたのだろうか。そのことが、今幸せをかみしめている僕の心の中に唯一暗い影を投げかけていた。そんなとき、彼女が沈黙を破って口を開いた。
「今日はどうしたの」
今日僕は入学したときから想いを寄せていた彼女に自分の素直な想いを伝えようと、意を決してここに来たのである。しかしそのようなことを今すぐこの場で言うのも難しい。まだまだ雰囲気が整っていない。彼女の質問に何と答えようか迷っている間に、また彼女の方から話しかけてきた。
「何か飲む?」
「ああ、じゃあコーヒーでももらおうかな」
彼女は冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、コップに注いでくれた。注ぎ終わって一瞬彼女が僕の方を向いて微笑んだ。その微笑みはまさに完璧だった。彼女の前では、世界中のだれが微笑んでもきっと色あせたものになるだろう。それほどまでにそのときの彼女の微笑みは素晴しかったのである。そして僕はそのとき改めて彼女をどのくらい愛しているかを自分の中で確かめることができた。そう、僕の心の中に彼女がいないときなんて1日24時間、ひとときたりともありえない。彼女はいつも僕の心の中で微笑み続けている。そんな彼女の微笑みを間近で見ることができた。そしてさらにその微笑みは僕に向けられたものなのである。僕はそんな彼女がたまらなく愛しくなり思わず力の限り抱きしめてしまいそうになった。
ちょうどそのとき、突然電話が鳴り出した。
「はい」
彼女はさっと受話器をとり、さわやかにそう言った。
「ああ、わしやけど……」
大きな声が電話の外にも聞こえてきた。一瞬で誰かわかった。なぜ彼がこんなところにまで電話してくるのだろうか。そんなことを考えているうちに、彼女は電話を切った。
「昔の彼氏がここにいると思って電話かけてきたんだって」
その言葉を聞いた瞬間、僕の目の前は真っ暗になった。やはり彼女が昔の彼に未練があるという噂は本当だったのか。そして彼は今でもこの部屋に入り浸たっているのだろうか。数多くの疑問が僕の頭をよぎっていった。僕は今すぐ彼女に前の彼と今でも何かあるのか聞いてみたかった。もし今聞きそびれたら、この先一生機会を失ってしまう。しかしもし聞いたら、僕が彼女に気があるということを気付かれるかもしれない。どうしようか僕は本気で悩んだ。
しばらく悩んだあげく、僕は何も聞かないでおくことにした。今変なことを聞いて怪しまれるより何も聞かずに次の機会を待ったほうが、可能性は薄いにしろゼロではない。そのような結論に達した。しかし僕は心の中ですごい自己嫌悪に陥っていた。勇気を出してちょっと彼女に昔の彼のことを聞くことすらできない自分自信がすごく情けなかったからである。しかしもう決めてしまったことだ。今さら何を考えても仕方がない。そんなふうに自分をなぐさめながら再び静かにコーヒーを飲み始めた。
彼女の電話が終わってから結構時間が経った。何か話さないと気まずい。しかし僕は何を話していいのかわからず、仕方なく静かにコーヒーを飲み続けた。そうしているうちに彼女の方から口を開いた。しかし彼女が言ったことはそのときの僕には想像すらできないことだった。
「ねえ、私と昔の彼とのこと気にならないの?」
僕はこの言葉を聞いて、一瞬彼女が何を言っているのか理解できなかった。なぜ彼女からその話を持ち出してくるのだろうか。だが、なにはともあれ彼女に彼との関係を聞くにはこのチャンスしかない。ついさっき聞くのはやめようと決意したばかりなのだが、再び僕の心の中では迷いが生じてきた。しかし今度はあまり悩まず結論が出た。勇気を出して聞いてみよう。このチャンスを逃すと、もうこんないい機会は絶対に訪れない。そう確信し、僕は彼女にあくまでも冷静さを装いながら聞いてみた。
「気にならないといったら嘘になるかな。実際のところどうなんだ?」
と一通り言った後、静かに彼女の反応を待った。
「ぜんぜんなんでもないし、もうあんなヤツのことなんか何とも思ってないよ」
彼女はきっぱり言い切った。そしてこう続けた。
「私には今好きな人がいるの。でも、その人は私のことに気付いてるのかどうかぜんぜんわかんなくて……。それに、私昔の彼氏とどうこうっていう噂がたってて、私の好きな人もその噂知ってるみたいで……。で、結局私は何も言えないままなの。私っ てかわいそうでしょ。そういえばあなたってさっきからずっと人の話を聞いてばっかりで自分の話は全然してくれないじゃない。今度はあなたの話を聞かせてよ。どうなの?誰か好きな人でもいるの?」
なぜ彼女が突然こんな話をしてくるのかよく理解できなかったが、一応言われた通りに、もちろん僕が彼女のことを好きだとは言えないので、なんとなくほのめかす程度に好きな人(つまりは彼女のこと)について語った。
「うん、まあ、俺にも好きな人はいるよ。その人はちょっと小柄な人で、いつも元気ハツラツとしてて、見てるこっちまで元気が出てきそうな人なんだ。よく一人で歌を歌ってることがあるんだけど、その声を聞くたびに心がはればれとしてくる。そういう人だよ」
僕は彼女が少し気付いてくれる程度に、彼女の特徴をそれとなくほのめかした。
「その人って幸せ者だね。あなたにそんな風に想ってもらえるなんて。でも今あなたが言ったその人の特徴って私にぴったりあてはまらない?」
「そういえばそうだな」
「じゃあさ、あなた私のこと見てても元気が出る?私の歌で心が晴れる?」
そのとき僕は自分が自分でないような感じがした。反射的にいろんな言葉が口をついて出てきた。
「もちろん。君のこと見てても元気が出るし、歌声は俺の心を晴らしてくれるよ」
「ホント?すっごくうそくさい」
「本当だって。ん?いや、やっぱりちょっと違うかな」
「ね、やっぱり私じゃだめでしょ?」
僕は彼女の言うことを聞かずに話し続けた。
「本当に見てて元気が出るのは君だけだし、心を晴らしてくれるのは君の歌声だけだよ」
これは決定的だ。もう後戻りはできない。あとは彼女の出方次第だ。そう思いながら僕は静かに彼女の答えを待った。彼女も何も言わず黙っていた。何かを考えているようでもあったし何も考えていないようでもあった。いずれにせよ今の僕には彼女の反応を待つことしかできなかった。しばらくの間沈黙が続いた。どのくらいの時間続いたのかわからない。長い間か短い間か、それさえもわからない。ただ、しばらくの間沈黙が続いた。その沈黙の間、僕は彼女について考えていた。本当に彼女の姿を見てると元気が出るし、彼女の歌声は僕の心を晴らしてくれる。しかし何より僕が彼女の中で気に入っているのは、時々見せてくれる一瞬の笑顔だった。彼女のその笑顔は何物にもかえがたい。全てを投げうってでも見る価値のある笑顔だと僕は思っている。そんなことを考えているうちに少しずつ時間は過ぎていった。
そして、しばらくして彼女はゆっくりと口を開いた。
「それって、本気で言ってるの?」
彼女の表情からは何も読み取れなかった。
「ああ。冗談でこんなことは言えない。実は俺、入学当時から君のことだけを見てきたんだ。いつか想いを伝えたいと思ってたけど、今日やっと言うことができたよ。……愛してる。世界中の誰よりも君だけを愛してる」
彼女は僕が話している間中、ずっと黙って僕の目を見つめ続けていた。そして僕が話し終わると、そっと目を閉じてゆっくりと僕の方に顔を近づけてきた。そのままゆっくりと僕たちの唇が重なった。実際は一瞬なのだろうが、そのとき僕はその一瞬が永遠のように感じられた。そしてこのまま時が止まってしまえばいいのにと、そう思った。窓からは夕暮れ時の淡い光が差し込んできて、部屋の中のものを全て薄い紫色に染めた。そしてその光は僕らをやさしく包み込んだ。
少しして彼女はゆっくりと唇を離した。しかし僕たちの目線は互いの目を見つめ合っていた。僕はもう彼女の答えなんかいらなかった。今の一瞬が全てだったのである。僕たちは長い間見つめ合った。そして2人がお互いの気持ちをわかり合えたと確信できたときはじめて、僕は口を開いた。
「これから2人で一緒に暮らそう」
「……うん」
そして僕は彼女の肩を抱きよせ、強く抱きしめた。僕たちを阻むものはもう何もない。この2人でなら何もかもうまくいく。僕は心の底からそう思った。そして彼女をいっそう強く抱きしめた。
彼女は僕の胸に顔をあてていた。彼女のゆっくりとした息づかいが僕の胸にもしっかりと伝わってきた。それに呼応するかのように僕の心も落ち着いていった。窓の外には奇跡のような夕焼けが広がっている。それはまるで僕たちの門出を祝福しているかのように見えた。
僕たちは非常に長い間抱き合っていた。そしてその間にお互いの愛を確かめ合った。今では彼女の愛がしっかりと僕の胸に伝わってくる。一瞬僕の心の中に不安がよぎった。こんなに幸せでいいのだろうか。いつか突然不幸が訪れるのではないだろうか。しかしそんな不安は、脈々と伝わってくる彼女の愛の前では川面の水泡のごとく消え去っていった。僕は長い間、この幸せをかみしめていた。
そのように長い間抱き合った後、僕たちはゆっくりとお互いの体を離した。
「あ、ちょっとシャワー浴びてくるね」
突然彼女はそう言って、バスルームの中に消えて行った。僕は彼女の残していったほのかな香りと、僕がこの部屋に来てほんの少しの間に訪れた突然の出来事に浸っていた。
彼女のシャワーが結構長いので、僕は鞄からMacintoshを取り出し彼女の部屋の電話回線をつないだ。そして電源を入れた。スタートアップ時の軽快な音とともに画面が明るくなった。画面が現われると僕はLaMailを起動させ、クラスの会議室を見ていた。
ちょうどそのとき、彼女がバスルームから出てきた。
「何してるの?」
彼女はそう言い、僕の隣に座った。
「いや、ちょっとLaMailでも見ようと思ってね」
隣に座っている彼女の髪から立ちのぼるほのかなシャンプーの香りが非常に心地よかった。そして再び彼女を強く抱きしめた。少しして突然彼女は顔を上げた。そして思い出したかのようにこう聞いてきた。
「ねえ、私たちが一緒に暮らすということはLaMailの電話代はどっちが払うの?」
彼女は真剣な目をしてそう聞いてきた。
「ここはお前の部屋なんだからお前が払うに決まってるじゃないか」
「何言ってるのよ。私たちお互い電話代は1ヵ月1万円以上するのよ。どうするのよ」
「ケチくせーな。電話代ぐらいでガタガタ言ってんじゃねーよ。まったく、お前がそんなケチなヤツとは知らなかったぜ」
そういって、僕はすごく不機嫌そうな顔をした。彼女は少し考えてこう言った。
「……ねえ、私たちもう別れましょ。やっぱり私たちって最初からうまくいかない運命だったのよ」
「そうだな。そのほうがお互いのためなのかもしれないな。世の中ってうまくいかないもんだよ」
そう言って僕は彼女の部屋から去って行った。もう僕は彼女の部屋を訪れることは二度とないだろう。僕の永遠の愛はたったの30分で終わった。
完