高校時代

1991年4月 福岡県立八幡高等学校入学

 高校に入ると、すぐに放送部に入部。迷いはなかった。技術とともに、今回はアナウンスの方もやるようになった。アナウンスの方はコンテストがあり、春はNHKコンテスト、秋は高文連のコンテストがあった。NHKの方は全国大会まであるが、高文連の方は九州大会止まり。ただ、県大会でいい成績をおさめると高文祭に行ける。僕は1年生の春は朗読部門で、後は全部アナウンス部門で出場した。2年生の春に北九州地区大会を通過し、福岡県大会に出場。しかし、県大会の壁は厚く、予選であえなく敗退。それからひたすら練習を積んだが、残りの2回の大会は地区大会で敗退。悲しかった。
1年生のあるとき、友だちから勧められてAMラジオを聴くようになった。KBC九州朝日放送の「ナイトスロープ3P」という番組で、かなりはまってしまった。ハガキにネタを書いて出しまくった。ある時、その番組の「あなたの夢かなえます」というコーナーで、1日パーソナリティをやらせてくれるというのがあり、オーディションが行われた。僕にラジオを勧めてくれた友だちと一緒に応募した。すると書類選考は通過。第2審査は電話で30秒自己アピール。2人ともなんとか通過。最終選考はKBCのスタジオで行われた。最終まで残ったのは10人(全部で120人ぐらいと聞いたが、うそくさい)。ただ、最終選考では不合格。残念だった。
入学当時は薬剤師になりたくて、大学は国立の理系だと思っていたが、次第にラジオのパーソナリティになりたいと思うようになってきた。そのため、大学も私立文系に行こうと思うようになった。最初はパーソナリティになりたいと思っていたが、放送部でアナウンスをやっていくうちに、ニュースキャスターになりたいと思うようになった。
高校時代、成績が非常に悪く、平均点以下だった。そのため、今回は自分から塾に行きたい親に頼み、小倉の河合塾に通うようになった。河合塾での勉強は新鮮で、成績が上がるかと思われたが、実はそうでもなかった。2年生の夏休みぐらいから勉強をがんばり始めたのだが、ほとんど変化がなかった。このころの志望校は立命館大学国際関係学部。河合塾においてあった、「Dynamic Academic」という立命館大学の広報誌を読んで魅力を感じるようになった。ただ、成績の方はさっぱりで、立命館大学なんて夢物語だった。2年生の冬、それまでつきあっていた彼女からふられ、勉強に打ち込みはじめた。なぜか集中力が増し、勉強がはかどるようになった。まずは手始めに駿台の「基本英文700選」というのを覚え、桐原の「即戦ゼミ3」を丁寧にやった。5月ごろ、最新版の「Dynamic Academic」を見ると、政策科学部という学部が新設されると載ってあった。よく読んでみると、「コンピュータを使いこなし、グローバルな・・・」というようなことが書いてあった。これこそ僕が求めているところだ!と思い、第一志望を国際関係学部から政策科学部に変更。鬼のように勉強し、いよいよ年が開けた。まずはセンター試験で受験できる私大に出願。無事合格したのでとりあえず一安心。ただこれで安心しすぎたのか、次の関西学院大学2学部と法政大学は撃沈。立命館の国際関係学部も撃沈。国際関係学部はアメリカン大学とのデュアルディグリー制度で受験したがどちらもダメ。不合格通知が2枚も届いた。あきらめかけていたところで、政策科学部に合格。天にも昇る気分だった。その日のうちに京都に行き、次の日には下宿を決めてきた。3月の終わりごろ京都に下宿し始めた。下宿を決めるとき、以学館の地下にRBCという、放送団体があることに気づいた。3月25日、RBCのBOXに行き、まだ大学に入学していないにも関わらず、先に立命館大学放送局に入局した。